2011年10月30日(日)
- (2011年10月31日(月) 午前6時59分25秒 更新)
生きる
生きる
一
例年にない寒さの続く日々であったが、特に二月はじめのその日は木枯らしが吹き、家から外へ出るのもためらわれた。
松本恵介は六十五歳の誕生日を迎えた。そして、五十三歳から十二年間勤めた会社も今日が最後である。定年退職ということでもなかった。この二年間は、嘱託という立場で勤めて来た。豊富な人脈をもつ恵介は、営業先の開拓でいくつもの成果を挙げて来たが、不況の波はこの小さな、インターネット広告の会社にも遠慮なく押し寄せていた。望めば仕事は続けられたが、昨年の秋頃から何となく六十五歳をくぎりにしたい思いだけが大きくなり、以前勤めていた中堅広告会社の後輩であったこの会社のオーナー社長の田村に退職願を出していた。
﹁松本先輩、遠慮なくいつまでも居て下さいよ。絶対年齢なんて関係ないですから。先輩はまだまだお若いですし………。﹂と、田村は言ってくれるのだが、
﹁お気持ちはありがたい。感謝しかないよ。この会社は居心地もよくて楽しく仕事をさせていただいているが、このままだと、知らない間に気がつけば七十五歳だったとなると思う。贅沢をいうようだが、人生の残り時間も見えて来た今、一度ここらで踊り場に立って、自分を見つめ直し、考え直してみたいのだよ。﹂と恵介は応える。
これが本音だった。
思えば、地方の大学を出て何となく就職したのが東京にある中堅どころの広告代理店だった。
どちらかというと文筆家にでもなれたらという、淡いおもいをもっていた恵介は、そのくせ懸賞応募に出稿するとかその為の努力は何もやってこなかった。そして、たまたま内定を貰って入ったのがこの広告代理店だ。
それならコピーライターなどのクリエイターにという甘い考えでいたが、この会社はデザインや写真、コピーなどの仕事はアウトソーシングしていた。
恵介はこの会社に二十二年間勤めたことになるが、最初の五年間はクライアント廻りの営業をやらされた。その後偶然が重なり、企画部門に移り、クライアントとクリエイターの間をプロデュースやディレクションをすることになった。
その仕事は恵介にとっては面白く、もともとその才能に恵まれていたのと、時代が高度成長期で仕事は選べるほどあり、やりがいを感じながら仕事に打ち込んでいった。とくにイベントプロデュースの仕事に魅力を感じていた。
充分力もついたし、もっとやりたいようにやりたいとその会社から独立したのが、四十五歳の時だった。子供は二人いるが、そのとき息子は十七歳、娘は十四歳と生活費も一番かかる年代だったが、恵介は苦にもならなかった。
恵介は独立してイベント会社を立ち上げた。最初は日の出の勢いだったが、平成七年一月十七日午前五時四十六分に起った阪神・淡路大震災の後はイベントどころではなく、恵介の会社の経営は日増しに厳しくなっていった。リストラして行き、自分一人になった四年後、自宅を売却すれば誰にも迷惑を掛けずに借金がチャラになるという見通しが立ったので、妻、息子、娘を集めて自宅売却の相談をした。全員恵介がやりたいようにやれば良いと言ってくれた。十五年間住み慣れた家を去り、借家に移った。時を同じにして、会社も休眠させた。
さて、これから先どうしようかと思っているところへ、
﹁松本先輩、よろしかったら手伝ってもらえませんか。﹂
と、声をかけてくれたのが、以前勤めていた広告代理店のときの部下で、四十歳で独立して三年目の田村だった。
田村はこれからはインターネットの時代だと見越して、インターネットに特化した広告会社を立ち上げていたのだ。
恵介はうれしかった。
﹁ありがとう。俺でも役に立てると云うなら、遠慮なくお世話になるよ。﹂
そのとき、恵介は五十三歳だった。
お別れ会は先週に行われた。恵介は3次会に付き合ってしこたま飲んだ。今日は終業時に、恵介のいた部署で最後のスピーチの機会をもらい、花束を贈呈された。ちょっと、恥ずかしさと寂しさを感じながら家路に付いた。
翌朝、目が覚めた。平日だったが、もう出勤の準備をすることもない。まさに恵介が永年望んで来た夢が今実現したのだ。
恵介には既に小学生だった頃から、﹁学校を休む﹂ことが快感だった。一九五四年だから八歳のころだ。あの人気漫画だった﹁赤胴鈴之助﹂の第一回を読んだのも、風邪を引いて大嫌いな注射をして大泣きした見返りに母親に買ってもらった﹁少年画報﹂に掲載されていたのだ。
余談だが、﹁赤胴鈴之助﹂の生みの親は福井英一という漫画家で、それ以前、﹁冒険王﹂という雑誌で連載した柔道漫画﹁イガグリくん﹂を大ヒットさせた。しかし、福井は﹁赤胴鈴之助﹂の第一回目を描いて急逝する。それを引き継いだのが武内つなよしという当時新人の漫画家だ。まだ幼かった恵介は福井は﹁イガグリくん﹂、﹁赤胴鈴之助﹂は武内つなよしと思い込んでいたものだ。
休む大義名分を得たときに、無上の喜びを感じていた恵介のこれまた最良の友が漫画であったのだ。
この﹁赤胴鈴之助﹂とともに連載開始を体験したのが﹁鉄人28号﹂であった。恵介の記憶では同じ時期だったのだが、調べてみると﹁鉄人28号﹂は﹁赤胴鈴之助﹂より二年遅れてスタートしている。横山光輝が作者である。
その後何年間かは覚束ないが、恵介は太平洋戦争後安価な漫画供給システムとして定着していた、﹁貸本漫画﹂文化の恩恵を被った一人だ。
その日は一日何もせず、大好きな珈琲を楽しんだり、年老いた飼い犬の散歩をさせたり、音楽を聴いたりして過ごした。その飼い犬は雌で﹁チル﹂という名だった。当年とって十六歳、よくここまで生きてくれたものだ。もう家族そのものといっていい。今や、ほとんど歩くことも出来ない。介護状態だった。
恵介の生家は皆犬や猫が好きでよく飼っていた。やれプードルだボーダーコリーだシャム猫だという嗜好はなくて、この世で唯一無二の﹁雑種﹂がいいという考えだった。このこだわりの方が逆に少々へ理屈っぽいのだが、恵介もその要素を受け継いでいた。
どちらかというと犬党なのか猫の扱い方がわからないのか、猫は定着せず、すぐに居なくなるか早く死んでしまったりした。そのかわり﹁ジョン﹂という名の茶色い毛の中型雄犬が居て、確か七年ほど飼っていたが、ある日鎖を千切って居なくなってしまった。野犬の収容施設等を兄達があたったが見つからなかった。
しばらくして、同じ茶色の毛をした雄犬がやって来た。行方不明の﹁ジョン﹂とも血がつながっていると云う。その犬も﹁ジョン﹂と呼ばれることになった。
﹁ジョン﹂という名は、当時のハリウッドの人気スター、ジョン・ウエインからとったらしい。ジョン・ウエインは恵介の亡き父がゲーリー・クーパーと共にファンであったからだ。この﹁ジョン二世﹂は恵介が大学生になっても生きていたから、十年以上は生きていたのだろう。
二
二
翌日は地元の異業種交流会で知り合った恵介より少し若い友人が脱サラして蕎麦屋をはじめるにあたってレセプションをやるというので、出かけていった。
名刺は個人の名刺を作っていたので、それを持参した。今まではこの個人名刺を使う場合にも、会社の名刺に添えてというかたちで手渡していた。その日差し出すのはこの個人の名刺のみだ。
﹁はじめまして松本です。宜しくお願いします。﹂というしかない。名前の前の肩書きがないのだ。
恵介は自分って誰なんだろうと蕎麦をすすりながら少し思った。そして少し戸惑っている自分を感じた。しかし、ここちよい酔いと次第に周りと打ち解けていく会話にそのことも忘れ去ってしまった。
そうこうしているうちに十日ほどが茫漠と過ぎていった。週末のある日、携帯電話のディスプレイに懐かしい人の名前が点滅していた。昔、中堅広告会社に勤めていたころ、よく仕事を一緒にしていたイベント関係の会社の社長をしている前田からだった。
﹁松本さん、ご無沙汰しています。M興産の西本さんが昨夜遅く、お亡くなりになりましたよ。﹂﹁えっ、冗談でしょ?そんな馬鹿な。﹂
﹁冗談なんか云いませんよ。今朝西本さんの娘さんが電話して来て、父が昨夜十一時過ぎに徒歩で帰宅途中にうしろから来たタクシーにはねられて、病院に運ばれましたが、頭を強く打っていて私がかけつけた時はもう意識不明で、それから二時間ほどして息をひきとりましたと、泣く泣く話してくれたものだから、すぐに、飛んでいったのですよ。﹂
﹁・・・・・﹂
﹁西本さんは昨夜遅くまで酒を飲んでいたらしく、結構酔っていたらしいのです。﹂
恵介は大急ぎで出かけていき、今は永遠に眠り続ける西本の前で冥福を祈ると共に、声に出さずに感謝の言葉をささげた。西本は恵介が中堅広告会社に勤めていたころの直属の上司で、恵介が退社した後もいろいろ相談に乗ってもらったり、顧客を紹介してもらったりずいぶんお世話になったものだ。それは、西本がM興産の宣伝部長に移ってからも変わらなかった。
西本の死は人間の生の無常さとはかなさを恵介にあらためて考えさせる契機となった。西本なら﹁アディオス!向こうで待ってるぜ!また、飲もう!﹂とニッコリ微笑みながら手を振って言うに違いないとは思うが、恵介は言い知れぬ寂寥感に包まれた。
﹁死ぬとき人間は一人だ。孤独の中で死んでいくのだ。﹂ある夕暮れ時、陽が西の山の端の稜線に沈んで行くのを仰ぎ見ながら、恵介は、今は亡き父、母、姉、義兄、義姉らの顔を順に思い浮かべては、問いににならない問いを投げかけていた。
﹁今も自分がここにこうしていられるのは、あなたがたのお蔭です。感謝しています。ところで、死んだら人間は何処へ行くのですか?又、会えるのですか?それとも全く何もかも無くなるのですか?﹂
こんな問いはいつからという記憶はないが、自我みたいなものが芽生えたときから、幾度と無く誰にともなく投げかけて来たものだ。そして、この歳になっても何も答えが見つかっていない。そして、死ぬまで見つからないのもわかっている。
だが、直近まで元気な姿を見せていた西本の急死は恵介に人は必ず一度は死ぬものだということを強く再認識させていた。
それから十日ほど経った頃、二十年間お世話になった田村の会社が不渡りを出したという情報が、その会社の一社員からもたらされた。寝耳に水だった。
不況のあおりで資金繰りが苦しくなっているのは知っていたが、倒産までは思っても見なかった。恵介がその会社を去ってからまだひと月も経っていない。どうやら大きな取引のあるクライアントが飛んでしまい、その煽りを喰ったのだ。
恵介は田村の携帯に電話したが出ない。田村の自宅の電話も繋がらなかった。
その日の夕方、恵介が書斎で窓から夕日が沈むのをぼんやり眺めている時に、携帯が着信音忌野清志郎の﹁ねむれないトゥナイト﹂を突然歌い出した。ディスプレイには見慣れない番号が表示されている。恵介が出ると田村だった。
﹁大変だったね。残念だが大きな不渡りを掴まされては防ぎようがないよ。日本の銀行は調査能力も無く、企業の将来性を見抜く眼力も無いので、不動産担保か代表者の保証を取り付けるしか能がない。だから、起業しても一度失敗すると経営者は身ぐるみはがされて、再チャレンジなど望むべくもない。だがね田村くん、金で命まではとられないよ。君は未だ若い。充分、やりなおせるよ。それと、こんな時こそ、家族一丸となるのだぞ。俺の周りでも失敗した人たちが大抵離婚しているのを知って、何のために一緒になったんだとよく叱りつけるんだが、ほとんどが後の祭りだ。﹂
と、慰めともアドバイスともとれることを伝えるしかなかった。
三
三
歳をとってからはさほどでもないが、恵介は元来”夜型”人間であった。制限なしの﹁自由時間﹂を手に入れたものの、通勤ということも無くなり歩く機会が激減しているのを恵介は自覚していた。
あるとき、書斎で珈琲を楽しんでいるとき﹁そうだ!﹂と、閃くものがあった。自分のくらしのあり方を変えてみよう、特に時間の使い方を革新的に変えてみようということだ。
勤めをしていたときは、夜の十二時から一時の間に寝て、朝の七時起きが標準のパターンだった。勤めの無くなった今、自分の堪え性のない性格からして、自然に任せておくと何処までも際限なく楽な方に流れて行くのは目に見えていた。これを思い切って五時起床にきっぱりと切り替えてみようと思った。逆算すると、夜は十一時に寝るのがいいのでは、睡眠時間は六時間くらいが今の自分に一番合っているなと、決めた。そして、早朝に歩こうと思ったとき、あることにふーっと気がついて、思わず苦笑してしまった。
﹁自分もやはり高齢者の仲間入りだなぁ。早朝ウォーキングなんて、まさに年寄りの典型的な行動のパターンではないか。高齢化の表札みたいなもんだものなぁ。﹂ということに思い至ったからだ。
それでも、決めると世間体やいろんな障害を気にせずすぐに行動に移すのが恵介のくせだ。翌朝、iPhoneの歩数計と云うアプリを探し出しダウンロードして歩き始めた。糖尿を患っている友人から毎日一万歩を目安に歩いていると聞いていたが、六千歩に到達するのですら大変だった。
しかし、ここからが、一見無駄と思われる様なことでも、やると決めたら、﹁楽しい遊び﹂にみるみる仕立ててしまう天才だと自覚する恵介の本領発揮だった。
まず、一万歩というメルクマールの数値の呪縛から脱却した。これは、﹁禁煙イコール健康に良い﹂という意識の呪縛から健康を気にしながら喫煙していたり、肺癌になるという強迫観念から逃れる為禁煙しようというヘビースモーカーに﹁煙草がおいしい間は何もかも忘れてとことん満喫した方がいいですよ。気にすること自体が肺がんを誘発する原因なんだから。喫煙が心地よいものでなくなったら止めればいいんですよ。﹂と説得したりする恵介の根拠のない直感的思考法だ。
﹁一万歩、一万歩﹂と歩数ばかり気にして歩くことのつまらなさがよくわかるからだ。そこで、自宅を中心に周囲三百六十度、道のあるところを歩き回って、みるみるうちに七つのおすすめコースを選定し、それぞれのコースに名称を付けてしまった。
三十分、四十五分、一時間、それ以上と分類し、その日の体調やスケジュールによりコースを決めて歩いた。そのかわり、短いコースは”忍者歩き”と称して、競歩とは又違う早歩きの開発まで楽しみながらやった。
恵介のリタイア後の暮らし向きだが、若い頃からライフサイクルとか老後のこと等に無頓着に過ごして好き放題にして来たのと、五十歳代前半で事業に失敗してサラリーマン時代に購入した自宅を手放してしまったので、借金こそ左程残っていなかったが、資産というものは皆無だし、年金も最低限で、貧乏学生だった下宿時代の暮らしに戻れば飢えるという様な心配はなかったが、十数万の家賃を支払いながらとなると、やはり何らかの収入の道を見つけなければならなかった。
まっ、それも二、三ヶ月は休養充電期間に充ててそれから考えればよいと思っていた。
月が変わり如月から弥生になった。久々に恵介の携帯から忌野清志郎が歌い出した。前職の取引先の制作会社の顧問で懇意にしていた山本からだった。
﹁ご無沙汰しております、山本です。松本さん、どうされてますか?﹂
聞き慣れた声が耳に当てたiPhoneから聞こえて来た。
﹁お久しぶりです。いやぁ、ぶらぶらと隠居生活を楽しもうかと思っているのですが、次から次へといろんな事が起こりましてね、まだ隠居生活とまでは行きませんよ。山本さんもお元気そうで何よりです。﹂
と恵介は応じた。
﹁いや、お電話したのは、弊社のお得意様で健康ブームに乗って創業して、そこそこ軌道に乗っている健喜食品という会社を松本さんもご存知ですよね。﹂
﹁ええ、山本さんにご紹介いただいて二度くらいは社長さんにお会いしてますよ。三十代後半で脱サラして起業された…ええ、大竹さんというやり手の社長さんですよね。﹂
﹁そうなんです。会社も今年の秋で三周年をむかえます。大竹社長も今年で四十歳なんです。益々脂がのって来て、三周年を機に新事業を立ち上げようとしているんです。﹂
﹁・・・・・・・﹂
﹁そこで、一般公募で増資をしたいらしく、資料一式の作成を頼まれたのですが、魅力ある事業提案の部分とフィージブルスタディの部分の両方が必要なもんで、そうなるとやはり松本さんにお出まし願わないと・・・・・。なんせ我が社はポスターとかDMとかホームページの制作とかしかやれるスタッフがおりませんので・・・・・。﹂
という話だった。
恵介は二度ほどだったが会話をしてみて、エネルギッシュだがその底に潜む大竹の人柄に好感を得ていた。
だから間髪を開けず、
﹁そういうことなら、今なら時間もたっぷりあるし、面白そうなので、是非お手伝いさせて下さいよ。﹂
と応えていた。
﹁それはよかった。で、ギャラなんですが・・・﹂
﹁ギャラなんかどうでもいいですよ。必要経費は請求させてもらいますがね。﹂
﹁いやいや、大竹さんのことだ、しっかり考えてくれますよ。それではこの件は私にお任せ下さいね。それで、この案件についてのオリエンテーションですが・・・。﹂
ひとわたりその後の段取りを打ち合わせて電話は切れた。
恵介は頭の中でざっとスケジュール行程を考えてみた。
まあ、本来なら仕上げまで三ヶ月仕事というところだが、スピーディさを求める大竹社長のことだ、二ヶ月後にプレゼンをしてほしいと言うに違いない。但し、会社側が用意するロウ・データが整っていれば、作業時間はさほど要しないだろう。
四
四
その次の週、恵介は健喜食品のある関西の中心都市大阪の北浜へ出かけた。大竹社長のオリエンテーションを聴く為だ。大竹の説明は恵介が思っていたこととほぼ近い内容だった。
第二回目のミーティングが行われたのはその月の十一日の午後だった。丁度今後の段取りの見直しをしているときだった。恵介はどうも目の前が横にゆっくり揺れている様な気がした。歳のせいで目眩がしているのかと思ってしばらく黙っていた。しかしその揺れは執拗に続いている。
そのとき、若い社員の一人が、
﹁どうも、地震のようですね。万一のこともありますから、念のためドアを開けたまま外へ出ましょう。﹂と言ったので、やはり現実に揺れていたのだと納得した。
オフィスのあるビルの五階から階段で下まで降りた。廻りのビルから大勢の人が外へ出て来ていた。こんな長い揺れは初めての経験だった。
携帯でネットのニュースを見ると、震源地は東北の宮城県と出ていた。東北の地震の揺れが関西で感じるなんて常識ではありえないことだった。
これは相当大きな地震だな、と思いながらも恵介と山本は健喜食品のビルを出ると、まだ陽が明るかったが、居酒屋を探しその暖簾をくぐった。生ビールを煽りながら、そのときは未だこの地震が十六年前に起こった兵庫県南部地震を上回る未曾有の大震災とは恵介も山本も思っても見なかった。
その夜、山本と別れ、恵介の住む最寄りの駅のロータリーまで車で迎えに来た妻の道代に聴いても、そういえば揺れた様な気がするという程度だった。
帰宅した後、居間でテレビモニターから流れる想像を絶する悲惨な現地の光景を見て、恵介も道代も唖然としたまま一言も発することが出来なかった。報じられる前代未聞の震度とマグネチュードの数値の大きさや押し寄せる津波のむごい画像に対し、死者、行方不明者、負傷者のカウントの緩慢さは大きなギャップを感じさせた。兵庫県南部地震のときもそうだったが、諸官庁もマスコミも情報が殆ど正確に掴めないのだ。分断され孤立化した現地の情報は点でしか把握出来ず、それだけにこの被害の大きさに思い至った恵介は、
﹁これは大変だ。へたすると死者・不明者は一万や二万では済まず、五万以上になるのでは・・・・・?﹂
という可能性すら頭によぎり、なかなかそれを吹っ切ることが出来なかった。
そして同時に、福島の原発の事故や首都東京の帰宅難民の情報も流れた。
恵介は東京の商社に勤める息子の伸吾に電話したが無論通じない。伸吾とその嫁の咲恵の携帯とパソコンにメールを送信しておいた。また、青森県の八戸市に住む若き知人からは何とか難を免れ無事にしていますというメールが返って来た。
そのうち咲恵からみんな無事で元気ですが、伸吾が帰れないで今夜は会社に泊まるそうです、というメールの返信が届き恵介は道代と胸を撫で下ろした。
恵介はその後、ネットバンキング経由で些少の震災募金をしたり、メンバーになっている異業種の集まりで、水を被災地に送る為の募金や、救助犬の団体への献金を募ったりしていたが、恵介が住む関西は震災の影響が多少はあるとはいえ、被災に苦しむ人々とは遠くかけ離れた別天地であった。
そしてその月もあっという間に終わった。
五
五
月が変わっても気温はいつまでも低く、毎年桜が散る頃に競馬の﹁桜花賞﹂が開催されるのが通例だったが、今年は満開の桜のトンネルを桜花賞馬がくぐり抜けるという皮肉な光景が見られるほどだった。
恵介は寒さに震える被災地の人々を思いやったが、そろそろ自分の生計のことも考えねばならない時期になっていた。
今はインターネットであらゆる情報が得られる時代だ。恵介はある一日パソコンに齧り付いて高齢者の就業状況を探ってみた。六十五歳以上の高齢者の人口比率が四人に一人に近づき、社会福祉政策だけではやっていけなくなるのは自明の理だ。新卒者の就職がままならないこととは矛盾するが、働ける間は何歳になっても働いてもらう方が寝たきり老人も減り医療費が押さえられるなど社会コストも下がり、日本国の人口が減る中で労働力確保にも繋がり、ひいてはGDPも押し上げ、デフレ脱却の一助にもなり、一石二鳥どころか一石三鳥にでもなるだろうというのが恵介の考え方だった。政府も定年延長を奨励する等その方向で対策を講じてはいるが、実効にはほど遠い原状であるのがみてとれた。
恵介はインターネットでみる現実に愕然とした。世の仕組み自体がどうぞ仕事は若い人に任せて六十五歳で現役から退いて下さい、となっているのだ。ハローワークでもタテマエは露骨な年齢制限は禁ぜられているのか、六十五歳以上で検索しても対象企業はピックアップされるのだが、個別に詳細にみるとほとんど雇用する気のないのが見て取れる。
恵介は若い人にもよく言うのだが、自分でも信念として持っている考えがあった。それは何時でも何処でも現実にモノを売る力があれば、どんな不況下であっても起業も出来れば、雇用されるチャンスもころがっているという考えである。これは年齢を問わない真実であると今も思っている。それに良質な人脈を築き上げることだ。
恵介にはこの両方とも兼ね備わっているという自負もあった。しかし、今更起業するのも面倒だし、人脈も自分の加齢と共に老朽化しており、あちらこちらに綻びが増殖し穴だらけになっているのが現実だろう。
それに、今後は人脈は利害関係のない、肩書きも外した、気の置けない関係に切り替えて行きたかった。
恵介は決断した。もう定職に就くのは諦めよう。暮らしに合わせるのではなく、収入に合わせて暮らしを考えようと。いわば﹁ギブアップ宣言﹂だった。これまでの恵介だったら、考えられない決断だった。しかし何故か恵介はこの決断にある心地よいものを感じ取っていた。何か創造的にブレイクスルーできそうな予感があったのだ。まさにコペルニクス的展開のような。大地が廻り出したのだ。
収入に合わせて暮らしを再設計するにあたって、最大の問題は十数万円の家賃だった。今から十二年前、自宅を処分したとき、息子の伸吾は自立していたが、家には未だ娘の花子が同居していた。花子はピアノを教えていたので、教室として使う広い部屋を必要としていた。それにチルという犬を飼っていた。だから、比較的広くてペットも飼え、二台駐車の出来る借家を探した。高台にある閑静な住宅街に適当な家が見付かった。その花子も今は結婚して、身重でもうじき臨月を迎える。
子供達が孫を連れて帰ってくる時にはこの広いスペースは有り難かったが、道代と二人きりの暮らしにこの家は広過ぎた。そこで今のスペースの半分強の部屋を探すことにした。
事業から撤退したときもそうだったが、恵介はいいときも、悪いときも、まず何でも家族には相談している。恵介にとって家族は最大の同盟軍であった。今回も、当然のことだが、真っ先に妻の道代に告げた。道代は何も言わず賛同してくれた。そして伸吾に以下のメールを送った。
伸吾殿
皆さん元気ですか?こちらも元気にやっています。
僕と道代の今後の身の振り方について、いささか大きく方向を変えたので、報告しておきます。二月以来、基本的には、従来通りとはいかなくても、現状の暮らしの維持をはかる方針でいたのはご承知の通り。さて、それから、二ヶ月。先週あたりから、そろそろ、収入の道を探そうといろいろリサーチしたのですが、一般的に云って、皆無ではないけれども、﹁社会的﹂には現状では﹁六十五歳﹂というときから、働くなという制度になっていて、﹁六十歳から六十五歳まで﹂は特別に計らってやるよという救済制度になっているのが大勢です。
勿論、自分でビジネスをやるというのがベストで、ニーズがあれば年齢は関係なしです。とはいえ、今すぐ何かを立ち上げなければとなるとすこぶる難しく、リスクも大きくなります。あせりが生まれます。このままずるずる行ってはいかん。取りあえず今は﹁ギブアップ﹂しよう。と金曜日に決意しました。そして、土曜日の夜に道代に相談しました。すぐに理解してくれ﹁あなたが現状維持で行く、と言っていたので、敢えて今までだまっていただけなのよ。﹂と言ってくれました。今まで苦労ばかりかけてきましたが、いつも勝手ばかりするこの僕を応援してくれ、一緒になって戦ってくれる道代には本当に感謝感謝ですし、最強の戦友でもあります。
そして、決まると早いのが僕たちで、昨日から今の半分くらいの︵勿論家賃も︶物件を探し始めました。
先程、﹁ギブアップ﹂という言葉を使いましたが、勿論、微塵もそんなことを考えてはいません。松竹梅で例えれば、取り敢えず、生活費用は梅にまで下げて、こころざしはスーパー松でいる。戦略的には、一切のリスクやあせりのない環境を構築して、自分らしいライフスタイルづくりをめざすつもりです。
まずは、ご報告まで。 父より
伸吾はいろいろ気遣いながらもやはり賛同してくれた。花子にも告げたが、無論のこと応援すると言ってくれた。恵介は有り難く思い感謝の気持ちしかなかった。
六
六
月が変わり薫風かおる皐月になった。でも、相変わらず、気温は低めに推移した。
中旬に入ったある夜、飼い犬のチルが静かに逝った。満十六歳だった。
チルの最後は実に物静かだった。丁度、娘の花子が臨月を迎えて我が家に逗留して夕食をとっているときだったのだが、恵介が何気なくチルを見るとも無く見ると、向こう向けに寝ているチルの背中がひくひくとしていた。チルが夢見ているときよく見せる状態だった。道代と花子との会話を聴きながら食事を続けていて、もう一度チルの方を見ると何かが違うことに気付いた。どうも呼吸をしていないように感じたので間近で背中に手を当てると本当に息が止まっている。それがチルの最後だった。
チルは恵介が一家を構えてから二匹目の飼い犬だった。前の飼い犬は十四年半生きた。そしてチルとは十六年、合計三十年犬と共に生きて来たことになる。正にチルは家族そのものだった。
チルが我が家の一員になったのは、阪神・淡路大震災が一月に起こった年の、五月のゴールデンウィークの終わりだった。恵介はゴールデンウィークの動員を狙って﹁ヴィンテージバイク展﹂をあるテレビ局の主催で大阪で開催していた。未だ世の中は震災後の自粛ムードが強く、当然ながら動員数はさほど伸びなかった。
最終日の片付けが終わり、帰宅途次、地下鉄から私鉄に乗り継ぐ為に歩いている時に携帯が鳴った。道代からだった。
﹁あなたお疲れ様。帰ったらびっくりすることがあるわよ。楽しみにね。﹂とだけ言って電話は切れた。
普段必要な事以外めったに携帯に電話なんかしてこない道代が電話をして来て内容を言わないという事は、よほど恵介が喜ぶことに違いないと思った。
今の状況で自分が大喜びするといったらひょっとすると﹃犬﹄かな…?
と、何の脈絡もなしにイメージした。
きっとそうに違いない。と、確信すらした。
いつもなら第六感があまり働く方でないタイプの恵介だが、この日は疑問すら抱かなかった。
そして、それがどんぴしゃに当たっていたのだ。
恵介たちは昨年の十一月に十四年半飼っていたロンという雌犬を亡くしていた。
このときは本当に悲しくて寂しく、つらい思いをしたものだ。半年経った今でもそれを引きずっていた。
帰宅した恵介を待っていたのは、茶色で鼻の廻りが黒く、脚が少し長めの犬の赤ちゃんだった。
七
七
その頃恵介たちが住んでいた家は、郊外といっても中途半端ではなく鄙びたところで、初めて訪れた人はこんなところにこんなに大きな宅地がと驚くのが常であった。台地の斜面を切り開いて造成されたこの住宅街にはおよそ千五百世帯ほどが住んでおり、丘陵や小川や田畑に取り囲まれていた。
歩いて二、三十分のところに有名な古寺が三つあり、恵介は古寺も自然も気に入っていた。殊に四季折々に見せるいろんな風情がたまらなく好きだった。
その家は恵介が四十歳になる少し前に、長期のローンで手に入れたのだが、それも偶然が重なっての事だった。
元々成り行きまかせで、きちっと人生設計など立てるのが苦手な恵介だったが、会社の定期の健康診断で胃部エックス線検査でひっかかり、精密検査を受ける事になった。その三年くらい前に胃癌で姉を亡くしており、胃に関しては少し敏感になっていた。
夜、なかなか寝つかれず、普段なら気にもならない天井の木目を眼でなぞりながら、﹁今、もし癌だったら、家もないし、小学生の二人の子をかかえて道代も大変だろう。﹂と考え込んでしまう日が続いた。
恵介は、入社当時は東京本社に配属になり、約十年東京に住んでいた。そのとき頭金なしで一度マンションを衝動的に購入している。当時の給料の三十パーセント以上をローンの返済に充てていたので、金融アナリストのいう﹁危険水域﹂を超えていた。
その頃既に子供が二人いたのだが、それでも毎晩のように飲み歩いて、当時流行し出したカラオケをスナックで歌ったりして、サイフを空っぽにして帰っても文句一つ言わなかったのだから、道代もやりくりが大変だったろう、どうしてやっていたんだろうと今にして思う。
大阪へ転勤するにあたって、三年ほど住んだそのマンションは売却して来た。バブル時代がまもなくやってこようとしていた時代なので、住宅も年々値上がりしており、五百万円ほど手元に残った。大阪では会社から社宅を与えられたので、恵介も道代も借家住まいの方がローンもなく気楽でいいと考えていた。現金で新車を買ったりして、その余剰資金も底をつきかけた頃に定期検診にひっかかったのだ。
幸い検査の結果は慢性の十二指腸潰瘍で通院・投薬でいいということで、﹁ほっ﹂と、胸を撫で下ろした恵介は家の一軒も持たないと何が起こるか分からないと、家族のことを考えて、購入可能な家を物色し始めた。
ある日、恵介は道代とドライブがてら、学生時代に堀辰雄の文章に曳かれて行ったことがある吉祥天女像と池に映る阿弥陀堂で有名な古寺を十五年ぶりに訪れた。
その途次眼前に突如住宅街が広がっていたのだ。
﹁第十四期分譲住宅予約募集中﹂という看板が立てかけてあった。
﹁ちょっと覗いてみるか?﹂と、軽い気持ちで車を住宅街の方へ走らせた。
車はその住宅街のゆるやかな斜面をゆっくり登って行った。それぞれの宅地は五十坪から七十坪くらいの広さがあり、建物もそこそこのグレードを保っていた。
保育園や小学校もあり、バスターミナルにはスーパーやコンビニ、十数軒の商店、銀行や郵便局の出張所もあり、日常生活に必要なものくらいは充分に調達可能であった。
そして、その一画にこの住宅地を開発したデベロッパーの現地案内所があり、恵介と道代は何の予断もなく中へ入って行った。
この広さの住宅がそこそこ交通の便のよいところにあったなら、恵介の収入ではとても手の届く価格では収まらないだろう。しかし、場所が場所だけに、ここなら何とかローンも組めそうだった。
だけど、果たしてこんな草深いところから毎日の通勤が可能なのかという疑問が当然のように湧いて来た。
受付の女性は恵介より少し年上で、人懐っこい感じだった。
﹁充分通勤出来ますよ。私もここに住んでいるんです。夫が毎日大阪まで通勤していますから。ほとんどの方が大阪か京都へお勤めですよ。﹂
という答えだった。
この住宅地の周辺の環境は田舎だが、堀辰雄の一文に魅かれて来たくらいだから恵介はこの土地は好きになれる予感があった。子供二人を抱え、ロンという犬を飼っていたし、道代も異論はないようだった。
これも何かの運命だ。よし決めたと恵介は思った。欲しいとなったらすぐにでも欲しくなるのが末っ子だった恵介の性格の一面だった。
しかし、くじ運に自信のない恵介は、申込みの倍率を聴いてみた。それぞれに四、五倍の申込みがあるという。
いろいろやりとりをしているうちに、受付の女性も恵介の明るさ、くったくのなさに好感を抱いてくれたようだった。
﹁それなら少し割高で条件的にはよくないですが、現在一人しか申込みのない物件がありますよ。﹂
ということで即決で恵介は申し込んだ。
後ほど判ったことだが、どうやらその競争相手もうまく他の物件へ移動させてくれて、無競争で当選ということになったらしい。
八
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その茶色の犬の赤ちゃんは雌だった。歯がかゆいのか抱き上げようとする恵介の手に噛み付いてくる。その脚の長さと小熊の様な面構えを見て、この犬はかなり大きくなるのではというのが第一印象だった。しかし、その予想は大きく外れまるでキタキツネのようにスリムな中型犬に育った。顔はシェットランド的になった。
この犬の名は、既に大学生になっていた二人の子供たちがつけた。彼らが共通で好きな人気ロックバンド﹁ミスターチルドレン﹂からとって﹁チル﹂と命名された。﹁チル﹂は雑種だったが、基本的に室内で飼うことにした。そのかわり、洗面所の壁面に貼られたクロスは家族が留守の時に見事にボロボロに剥がされた。
チルの最大の特徴は脚の速さだった。走るチルをみて﹁韋駄天﹂という言葉を恵介はよく思い浮かべたものだ。秋、稲の刈り取りの終わった田んぼをチルは駆け去り、みるみる米粒のようになって消えたかと思うと、疾風の如く眼前に出現するのであった。しかし、一度首輪を外すと、つかまるのがいやで、一定の距離を保ってこちらを眺めているので﹁オコジョ﹂みたいと娘がよく言ったものだ。
恵介と道代は休みの日にチルを連れて近辺を散歩し、自然を楽しんだ。ペットボトルに水を入れて、十キロメートルほど歩いたこともあった。
まさにチルは家族の一員であった。引っ越しも一緒に体験し、人間と違って、言葉にしなくても以心伝心そのもであった。例えば散歩に行こうと思うだけで、たまたま二階にいたチルがパタンパタンと階段を降りて来たりしてよく驚かされたものだ。
そして、十五歳の後半からかなり足腰が衰え始め、多少のボケもはじまっていた。手で支えてやってはいたが、最後まで自力で食事もし、オムツはしていたものの自力で排泄もした。そして、我が家に来て丁度十六年を迎えてチルは天国へ召されて行った。恵介は六十を過ぎてから言葉には出さなかったものの、チルの頭を撫でながら﹁お互いどちらが先に逝くかわからないが、精一杯元気に生きていこうな。﹂とよく呼びかけたりした。そのときのチルの眼は充分応えてくれているように恵介は思ったものだった。
本当に静かな死だった。ロンのときと違い、恵介は涙は流さなかった。淋しくはあったがチルに対して感謝の気持ちで一杯だった。遺体が運ばれて行くとき、手を合わせて﹁ありがとう!﹂と心の中でつぶやいた。
それから数日経って、恵介たちの新たな住まいが決まった。今住んでいる家の広さも半分だが、家賃も半分だった。立地も利便性の高いところだった。
問題は家財道具だった。相当思い切って処分しないととてもじゃないが半分のスペースに収まらないだろう。何を残すのか、これが意外に難しい選択だった。
しかし、恵介と道代の考えに大きな差はなかった。そのころ﹁断捨離﹂という言葉が流行語となっていた。二人はこの言葉を引用しながら、二人のオリジナルの﹁断捨離ルール﹂を決めて実行し始めた。
そして改めて気づいたことがある。後生大事にとっておいたものも、引っ越しの機会などがない限り、決して再び見たりすることは稀だということだった。その存在すら忘れ去っているものが殆どだった。
恵介にとっては聖域だった書棚にうずたかく鎮座まします書物も未読のものは別として、読み返すことも殆どなかった。調べものがしたければインターネットの検索マシーンで九分九厘ことたりるし、読み返したければ公共の図書館に行けばよい。一般の書店にある様な本なら徒歩十五分のところに市立図書館の分館があるし、入手しにくい資料なら車で十五分のところに百万冊以上を所蔵している国立国会図書館関西館があるのだ。そのことは恵介は音楽の世界で既に経験していた。それは恵介の還暦祝いに家族からプレゼントされ今も愛用しているデジタル音楽プレイヤーiPodという端末だった。恵介はこの端末に五千曲ほどの楽曲をダウンロードしている。演歌、和洋ポップス、ジャズ、カントリー、ラテン、クラシックから落語まで幅広いレパートリーだ。これは美空ひばりからグレン・グールドのピアノまで﹁いいものはジャンルを超えていい﹂という恵介独自の価値観から来ている。ときたま、手のひらにiPodを握りしめながら、この中に三百枚から五百枚のCDアルバムが入っているのだという感慨にひたったものだ。
勿論恵介はデジタルなら何でもいい、便利なら何でもいい、と単純に考えているのではない。昔、アナログレコードで聴いた名曲に時たま入るレコード針のパリパリッというノイズに涙したことを今も忘れてはいない。旧石器時代にアルタミラの洞窟で壁画を描いたり、観たりした人々の心の襞にまで思いをフォーカスする感性すら持っている。そして人間の人間らしい感性は今も昔も変わらないはずだという思い込みは強い。しかし、その人間だからこその感性を享受する為にこそ、科学の発達が産み出した入手可能な利器は活用しない理由はないというのが恵介の信念であった。
聖域だった書物に関しても大げさに言えばコペルニクス的展開を果たした恵介は今だに﹁所有﹂という欲望にとらわれていた自分に気づいた。未だ充分分析は出来ていないが、解脱とまでは行かないまでも、少し﹁脱皮﹂出来た様な感慨にとらわれた。﹁老﹂﹁生﹂﹁死﹂への問いかけの入口がその辺にある様な気がした。
恵介と道代は未練を断ち切って大胆に身の回りのものを整理廃棄した。
去るものがあれば、来るものもある。それが世の常だ。
チルが逝って二週間後に花子が無事二人目の子を出産した。一人目は男の子だったが、今度は女の子だった。恵介にとっては三人目の孫だ。それからにわかに道代が忙しくなった。花子が入院中は、間もなく三歳になる孫を預かり、車で二十分ほどのところにある産院に通った。
花子は恵介の家から車で三十分ほどのところに住んでいた。花子が退院してからは道代が花子の家にしばらく寝泊まりすることになった。恵介は夕食をとりに車で花子の家に通った。
そんな慌ただしさの中で、花子の婿に手伝ってもらって引っ越しは完了した。その間東京から伸吾も休みをやりくりし家族で手伝いに来てくれた。
そして、未だ慣れない新居の狭いながらも書斎にしている部屋で恵介が本を読んでいるとき、いきなり携帯電話が鳴った。電話の主は中村という恵介が仕事とはかかわりなく、何となくお互い気が合うのか二十年来付き合いのある十五歳ほど年下の経営者からだった。
﹁松本さんご無沙汰しています。元気にされていますか?一度お食事でもと思ってお電話しました。﹂
数日後の昼、二人は大阪のとある蕎麦屋で談笑していた。
中村は大手旅行業者向け専門の出版業で成功していた。恵介は中村がまだ三十歳を超えたばかりの頃にバーで紹介されて出会い、彼の経営者としての感の的確さに舌をまいていた。中村は恵介の生き様にある種一目をおいていた。
食事も終わろうとしているとき、
﹁間もなく新しい事業を始めようと思っているのですが、その仕事を松本さんに是非手伝ってほしいのです。﹂
と、中村は切り出した。
恵介にとっては有り難い話だった。中村の周辺にはもっと若くて適材な人物が大勢いるはずなのに自分に声を掛けてくれた中村の気持ちがよくわかる。
﹁有り難いお話だし、面白そうだから是非お手伝いさせてもらいますよ。だけどもうこの歳だし、大したことは出来ないよ。﹂
恵介はこの一期一会の世の中で、損得よりも手応えのある人間関係を確認出来たことがうれしかった。
そして、半月後恵介は久々に通勤電車の賑わいを楽しんでいた。
六十五歳という節目を迎え、仕事を離れ、四ヶ月の間じっくり自分を見つめ直してみて、またこうして日常生活に還ってこれた自分を振り返って恵介は思った。
﹁私は生きているんだ。﹂と。 ︵完︶
あとがき
あとがき
六十五歳からの手習いをしてみようともうろく宣言をしてから三ヶ月あまりが経った。そして、その第一作をここに上梓することになった。
最初の作品は思いがけず私小説になってしまった。この﹁生きる﹂はこの平成二十三年二月からの約四ヶ月間の自分の思いを綴ったものである。無論事実もあればフィクションもある。
評価はさておき、初めて最後まで書き切った自分にまずはご褒美をあげたい。
今後はあれもこれも書きたいことが一杯浮かんできている。
平成二十三年十月三十日 奈良にて 白鷺